寄稿者:橋本繁美
画家・田中一村がこよなく愛した奄美の自然。彼が描いたアダン、カジュマル、クワズイモなど、亜熱帯特有の植物や原色の熱帯魚等、奄美の自然は見るものを圧倒してやまない。一気に田中一村のファンになってしまったのは私だけではないと思う。その魅力はまだまだ紹介したいところだが、今回は彼が奄美にやってきたときの話を少し。
手許にある資料によると、昭和33年(1958)12月12日、奄美航路の高千穂丸に乗って、鹿児島港を出港し、翌13日の早朝に名瀬港に接岸。寒い師走の風に追い立てられるように千葉を旅立ち、絵描きとして生涯最後を飾る絵を描くために奄美大島にやってきた。一村、50歳のとき。いくら南国の島とはいえ、冬の京都からみると寒くはなかったのだろうか。寒さより、奄美に魅かれて踊る画心の方が強かったのか。それにしても、強い決断と実行の持ち主。何をするのにも計画的な一村、その胸にある決意、裸一貫ですごいなと感心するばかり。奄美で年の瀬を越え、正月を迎えた彼の心境はどうだったのか。祝賀気分より、奄美の自然を写しとる方が先行していたのは確かだ。
「絵を描くために生まれてきました」という一村は、名瀬警察署長の紹介で、屋仁川の梅乃屋に宿を借り、奄美各地を回り、写生帖は数冊にのぼったとある。翌年、国立療養所和光園の官舎に転居。昭和37年(1962)、名瀬市有屋に借家し、生活費を稼ぐために大熊の紬工場で摺り込み染色工として働きはじまる。昭和40年(1965)、一村にとって大事な姉、喜美子(60歳)千葉にて逝去。遺骨を抱いて奄美に帰る。二年後、59歳、ようやく絵に専念する日々に。62歳で再び、紬工場で働き、64歳で絵三昧の生活に戻るが、本茶峠への歩行訓練中、めまいに襲われ転落。以後、失神をくり返すようになるが、その都度、強い精神力で立ち直る。昭和51年(1976)夏、畑仕事中に脳血栓で倒れ入院。妹・房子が連絡を受け、奄美大島に来島。千葉の両親に奄美での作品を託す。昭和52年(1977)5月、体調が回復し、展覧会の作品を集めるため千葉に行き、奄美での全作品を奄美大島に持ち帰る。9月1日、区画整備のため16年間住んだ家を立ち退き、近くに一軒家を借りる。9月11日、夕食の準備中に心不全に倒れ、69年の生涯を終える。彼にとって、異郷の地で、生涯最後を飾る絵を描くために、まずは生活費を稼ぐために紬工場で働き、目標額がたまれば絵に専念するという生活を繰り返した。才能に恵まれ、まさしく絵を描くために生まれてきたような人生だった。