寄稿者:橋本繁美
先日、名人、六代目三遊亭圓生の古典落語『百年目』を聴いていて、「だんな」のいわれがあったのでぜひとも紹介したい。
南天竺に栴檀(せんだん)という大きな木がある。その下に南縁草という汚い草が生えていた。みっともないというので、その草を取ってしまうと、あんなに栄えていた栴檀の木が枯れてしまったという。南縁草は栴檀にとって何よりの肥料であり、また栴檀からおろされる露を肥やしとして繁盛するという。お互いに、持ちつ持たれつという訳である。旦那という言葉は、栴檀の檀と南縁草の南をとって、だんなん、だんなとなったとか。
「ここの家でいうとおこがましいが、私が栴檀で、おまいさんが南縁草だ。(中略)これが店に行くと、今度はおまいが栴檀で、若い者や店の者、小僧たちが南縁草になる。これねぇ、私の思い違いかも知れないが、近頃、店の栴檀はたいそう威勢がいいが、南縁草がちょっとしおれているんじゃないかと……ま、こりゃ私の考え違いかも知れないが、枯らしてしまえば、おまいさんという栴檀も枯れる。従って、私も枯れなければならない。どうか店の者にも、おまいから出来るだけ露をおろしてやってもらいたいのだ」。
さらに、旦那は「無駄がいけないといっても、あれも無駄、これも無駄といって、無駄を一切省けば世の中が良くなるものでもない」という。一見、役に立たないような者でも、育てようで、何かの役に立つようになる。はやい話がおまいさんだって……。というように、旦那が語る経営哲学、こりゃ勉強になるなと感心した次第。(古典落語『百年目』、参考文献:山田敏之著『役に立つ落語』新潮社刊)