寄稿125 喧噪のなかに静寂な膏薬図子 / 京を歩く

京を歩く寄稿記事-ことばの遊園地-

寄稿者:橋本繁美

京都には、家と家のあいだに「辻子・図子(ずし)」や「路地(ろーじ)」といわれる細い道が点在している。まるで迷路みたいで子どもたちの遊び場になっていたのは昔の話か。辻子と路地との違いは、通り抜けられる路が辻子。行き止まり(どん突き)になっている路が路地。仕事場からも近いところに「膏薬辻子(こうやくのずし)」がある。それは西洞院通と新町通の間、四条通と綾小路通に抜ける細い道。道幅は約2m、長さはおよそ160m。京都市指定文化財の財団法人奈良屋記念「杉本家」の南西側をめぐる路地である。なかなか読みにくいというか、馴染みにくい膏薬辻子という通り名は、空也上人が平将門の霊を弔って建てた「空也供養(くうやくよう)の道場」が訛って膏薬(こうやく)と呼ばれるようになったそうだ。

膏薬辻子を挟む地域が、明治2年(1869年)に新釜座町と命名されるまでは、地域の名称としても用いられた。いまから十数年前になるかな、この道がきれいに石畳を敷いき、京町家が軒を連ねる風情あふれる景観に整備された。いまでは、きものを着た女性や外人さんが町家と辻子を背景に写真を撮っている姿がよく見られ、ちょっとした観光スポットにもなっているみたいだ。

四条通西洞院のバス停から入って行くと、辻子のなかほど小詞、神田明神がある。京都なのになぜと誰もが思うかもしれないが、『拾遺都名所図会』巻1によれば、ここは天慶3年(940)、藤原秀郷らに討たれた平将門の首をさらしたところという伝承がある。なんだか怖い話だ。神田明神の名は東京神田明神が将門を祀ることから、その名がつけられたという。後年、ここに将門の霊を弔って空也上人が一宇の堂を建てた。人々は「空也供養の道場」と呼んだ。『重篇応仁記』下巻に永正17年(1520)、細川高国と三好長輝が戦った記事に「三条ノ等持院、ならびに膏薬道場二陣取テ」とあって、江戸中期には、すでに膏薬図子の名で呼ばれていたこともわかっている。

喧騒のなかに、こんなに静まりかえったスポットがあるのが嬉しい。歩いていると、時代劇のロケ地というか、なんだかタイムスリップした気分になる。心まで落ち着く、お気に入りの図子である。

夏になると、このあたりも祇園祭の山鉾町で、伯牙山(はくがやま)、郭巨山(かっきょやま)を出すところでもある。商家の格調ある佇まいを残す杉本家は、伯牙山のお飾り所となる。現在は瓦屋根の葺き替え工事がおこなわれている。普段は人通りの少ない図子も、宵山となれば多く見物の人々の往来で賑わう。