投稿者:ウエダテツヤ
2006年4月。真っ暗闇の中私がいたのは大島紬の聖地、奄美大島だった。
遡ること半年ほど。私は福岡県にあった着物小売店に勤務していた。私の中で奮い立たせていた「やる気」の正体は「不安と自信のなさ」(3 初めての角帯の話 参照)だったが、この頃になるとその正体に呑まれそうになっていた。苦手な事(接客)への挑戦と克服を果たしたと思っていたが、今思えばやはり苦手な事に変わりなかった(今も苦手)。
そんな折に転勤辞令をいただいたのだけれど、退職を考えていることを伝え、無理を言ってもう半年そこで勤務させてもらうことになった。丸5年の勤務で自分が得たもの、学んだものは沢山あったけれど出来なかったことも沢山あった。お客様はもちろんのこと、上長やスタッフ、同期や取引先様など数えきれない人のお世話になった。そんな私は今でも着物小売店で働く人は凄いなと思っている。
退職することを決断し、父に相談した。「奄美大島に行くか?」と父から問われた時、「そうする」と即答した。その後は退職までひたすら日々の仕事と向き合ったのだけれど退職日が迫ってくると今度は父に「ほんまに奄美大島行くんか?」と言われた。「え?いくで」と答えた。「そうする」「え?いくで」の二言で奄美行きが決まった。
2月か3月だったかに下見を兼ねて奄美大島へ行った。その時あやまる岬から見た海に感動したのを憶えている。私が移住する上で、引っ越し先や渡航も含め様々な人が奄美大島を教えて下さった。本当に親切にしてもらった。
そして冒頭にもどる。引っ越し初日、真っ暗な中から始まったのはその渡航にある。下見は飛行機だったけれど引っ越し時は車があったのでフェリーで鹿児島から渡った。奄美に着いたのが夜明け前。ここはどこだろうかと知らない景色の中、けれど全く異なる生活が始まることに期待し、自由によって大いなる迷いが私に生じることなどこの時は知る由もなかった。
タイトルで奄美大島を大島紬の聖地と表現したのは「あまりにも」と言えるほど、想像以上に奄美大島の人々にとっての大島紬が偉大なものだったからだ。「紬」という言葉がそこで示すのはただ一点「大島紬」(紬=大島紬を表すことの方が圧倒的に多い)。その「紬」への思いは私が知っていた着物の概念とは別世界の価値観に思えた。家族・知り合いが何らかの形で大島紬に関わってきた歴史からだろうか、既に生産反数がピーク時の10%以下になっていた当時でも島の人たちは大島紬の「当事者」だった。その熱を肌で感じるかの如く、「大島紬を学びに来ました」と言う私はどこへ行っても歓迎された。ありがたいことであり、一から出直しでもあった。事実、目的は「大島紬技術指導センター(当時)」での学生(伝習生)のやり直しだった。
大島紬を販売する人から大島紬を学ぶ人になった。「大島紬は普段着ですよ」と販売時に言っていた私は普段着として大島紬を着てはいなかったけれど、仕事着の着物から少し解放され「着物」から「大島紬」の世界へ確実に足を踏み入れた。大島紬を着ていると喜ばれ、大島紬を愛する島。
まさに一色。聖地だった。