寄稿者:橋本繁美
文殊の知恵の発祥は京都⁈
先日、愛称「黒谷さん」で親しまれている金戒光明寺(京都市左京区黒谷)に行ってきた。まだ冬の寒さが抜け切らないなか、坂道を登ってお参りしてきた。ここに来ると思い出すのが、昔からよく使われることわざ「三人寄れば文殊の知恵」。その名のとおり、知恵のないものでも三人よって相談すれば、ない知恵も浮かぶもの。凡人でも三人集まって相談すれば、すばらしい知恵が出るというたとえ。これが文殊知恵の菩薩をいい、文殊は、仏教で知恵を授かる菩薩といわれている。 日本三文殊のうち、二つまでが京都で、一つは金戒光明寺と、智恩寺(京都府宮津市)の文殊。残るひとつは、奈良桜井市の知足院崇敬寺。そう聞くと、なんか、ありがたい気持ちにさせてくれる。
デザインって?
同じモノでも、人によってモノの捉え方はまったく違うのである。とかくこのあたりまえのことを忘れがちだ。モノと人との関係を丁寧に見ていくと、残すべきものが少しだけ見えてくる。それはとてもとてもささやかな気付きだから、どうでもいいと思えばすぐに消え去る。他人に相談しても伝わらないようなもの。それをキメの細かいメッシュで掬い上げるような仕事だったのかも知れない。(中略)
グラフィックデザイナー・佐藤 卓(2006年). クジラは潮を吹いていた。 DNPアートコミュニケーションズ
本来、デザインも身体が反応するものとしてあるべきもので、デザインがデザインとしてあるうちはデザインではないのだろう。気が付かないうちに反応しているもの。デザインと身体の関係が多く語られているが、デザイナーは自分の身体を忘れがちではないか。脳で考える身体と、自分の身体が遊離してはいないか。常に、自分に問う姿勢が大切である。と、実は自分に言い聞かせている。
デザインにはすでに世の中にある見えない気配を見つける技術が必要である。だから自我をできるだけ捨てなければいけない。デザインにはコミュニケーションを成立させる技術が必要である。だから他者と丁寧に接しなければいけない。デザインには集中するための身体を整える技術が必要である。だから脳と身体のバランスをとらなければいけない。感性など誰にでもあるもの。デザインは感性などではなく、まったくもって技術である。
ずいぶん前に読んだ本だが、デザインを考える上で重要なファクターとなっているので紹介した次第。佐藤卓さんは、「ニッカウヰスキー ピュアモルト」の商品開発から始まり、「ロッテ キシリトールガム」、「明治おいしい牛乳」のパッケージデザイン、「全国高等学校野球選手権大会」のシンボルマークデザインなどを手掛ける。また、NHK Eテレ「にほんごであそぼ」アートディレクター、「デザインあ」総合指導と、多岐にわたって活動されている。