寄稿7 奄美探訪記と大島紬 7-1 奄美を描いた画家、田中一村。

奄美探訪記と大島紬寄稿記事-ことばの遊園地-

 寄稿者:橋本繁美

あやまる岬で大パノラマを堪能した後は、近くにある奄美パークへ向かう。そこには、田中一村記念美術館がある。恥ずかしい話、奄美大島に来るまで、日本画家・田中一村を知らなかった。日本の、いや世界のグラフィックデザイナーの巨匠・田中一光はよく知っていたが、一村の絵は見たことがなかった。

美術館に入って、その迫力ある絵を目にしたとき、これまで味わったことのない深い感動と驚きを覚えた。亜熱帯の奄美大島の生命力あふれる自然が、一村の鋭い観察力と感性で描かれていた。アダンの実、クワズイモ、ソテツ、白い花のダチュラ、アカショウビン、伊勢エビと熱帯魚など、どれも精密にデッサンされている。次々と見たこともない奄美の豊かな自然が語りかけてくる作品群に圧倒されてしまう。奄美の高倉をイメージしたこの展示室には、一村の千葉時代の作品も含め、約80点(年4回展示替え)が展示されている。時間の許す限り、見ていたい作品ばかりだ。

以前、紹介した奄美黒糖焼酎「里の曙」(町田酒造)のラベルやパッケージにも使われていた。現在でも、田中一村の名画『初夏の海に赤翡翠(アカショウビン)』のラベルの奄美黒糖焼酎「奄美の杜」、『アダンの海辺』のラベルの「奄美黒糖焼酎「一村」がある。一村の絵には、奄美大島の豊かな自然がみごとなまで鮮明に描かれていた。かつては、田中一村のカレンダーまで販促物としてあった。それが欲しくて奄美黒糖焼酎を箱買いしたものだ。そうそう、京都新聞(ロゴマークは田中一光)の凡語にも、田中一村と奄美黒糖焼酎の町田酒造さんのことが記事になったこともあった。


田中 一村 たなか・いっそん

日本画家。明治41年(1908)、栃木県に生まれる。幼い頃から画才を発揮し、7歳の時,父の濔吉(号稲村、稲邨)より「米邨」の号を与えられる。大正15年東京美術学校入学後、わずか2か月余りで中退、その後、南画家として活動する。第19回青龍展に「白い花」を出品入選するが、その後、中央画壇とつながりをもつことはなかった。昭和33年(1958)、50歳で単身奄美大島に移住。紬工場で染色工として働き、蓄えができたら絵を描くという生活を繰り返し、亜熱帯の植物や動物を描き続け、独特の世界をつくりあげた。絵描きとして清貧で孤高な生き方を通した一村は、昭和52年(1977)69歳でひっそりとだれにも看取られずにその生涯を閉じた。

田中 一光 たなか・いっこう

グラフィックデザイナー。大正5年(1930)、奈良県に生まれる。京都市立美術専門学校(現京都市立芸術大学)卒業。鐘淵紡績、産経新聞社、ライトパブリシティを経て、日本デザインセンター創立に参加。昭和38年(1963)独立、田中一光デザイン室主宰。西武流通グループ(セゾングループ)、西武の無印良品、銀座セゾン劇場のクリエイティブディレクター。ニューヨークADC 金賞、ニューヨークADC 殿堂入り、日本文化デザイン大賞、紫綬褒章受章、東京ADC グランプリ、朝日賞文化功労者顕彰。平成14年(2002)71歳没。